2016年2月28日日曜日

    小説  土地

    
  戦後移住者には先祖代々続いていた働く場所を
  失い移住した家族がおる。
  日本では炭鉱が廃坑になり働く場所がなく移住
した家族。沖縄では戦後米軍用地に接収されて
働く場所がなく移住したのがおる。
  新里哲夫の家族もその一家族である。新里家は
祖父の代で働き者だったと語られている
琉球王朝時代までは土地は王家のものだった
明治になり所有権が交付された。土地が課税
の対象になる噂が出て所有権を拒む戸主も
あった、哲夫の祖父は先見を先取りして多く
の土地を所有した村一番の地主だった。
戦前は日雇い人を使って砂糖キビを栽培して
いた。戦後米軍の普天間基地に接収されて
  家族は働く場所を失った。
  経済的には借地料は土地の収入よりも多く
恵まれた生活ができた。  
戦争で家も失いアパート暮らしをしていた
 自分の家を新築したくても基地を明け渡される
のを待ってふみきれなかった。中でも心を痛
めたのが環境問題。軍用地代が生活を豊かにして
 若者達が昼から酒場に飲み放題でお金を使い
 働く意欲を失っていた。
 哲夫は長女十二歳を頭に男子二人と女子二人
 が教育時期を迎えていた。将来が思いやられた 
 新里家の親戚でブラジルの北パラナに土地を
持っていたのを幸いに手紙を書いた。
 内容は所持金も十分あり子供の将来を考えて
移住したいとの事だと説明した。
家内の栄子と子供を含めて海外移住を語り合った
 栄子は爆撃機が空を飛ぶごとに忌まわしい戦争
 当時を思いだされた。長女をおんぶして中部の
 激戦地をのがれて北部のヤンバルへの疎開だった
 当てもなく群れをなしての行進で僅かの
食糧と着替えを持って宜野座村にたどり着いた
村人は山奥に避難して村はずれに空家があった
ので、一夜を明かす事に決めた
哲夫は防衛隊に参加したけど妻の栄子の後を
追って宜野座まできていたけど米軍に拿捕された
哲夫の父は最後まで家を守る為に残った
食糧も亡くなり。これ以上逃避も不可能と悟り
何とか食べる芋をさがした、二日は何とかすごして
三日目にはアメリカ軍が宜野座まで進駐してきた
宜野座には米軍による病院が設立されて、住民の
治療に当たった。中部の激戦地から負傷した住民
が送られていた。
亦住民から看護や炊事に働く女子を募集して
食糧が与えられた。栄子が病院に働いている時に
偶然にも哲夫の母がけがをして入院していて
栄子にあう事ができた。
母ウトさんの話では夫は家で爆撃受けて死亡した
と語った
家主の老夫婦も山からおりてきた家に見知らぬ
親子が住んでいるのにびっくりした、栄子は
普天間から激戦地をのがれてこの家まで辿り
ついたことを説明した。
戦争はお互い助け合って生き延びるのだ。お互い
我慢しようと快く受け入れた。老夫婦は一歳の
晴美を孫の様に見守った。.栄子が病院の
炊事場で働く間も晴美を守ってくれた。帰りには
 アメリカから送られてきた支援物資の中から
 洋服や子供服など食べ物まで持ち帰り家主を
交えて分け合った
終戦になり普天間の近くに移り住んだ
たった四か月の逃避行がいまでも爆撃機が空を
飛んでいるのを看ると過去が現実のように
思いだすのです
平和になったのに戦争の恐ろしさが頭に
 住みついている。栄子は老後だけでも戦争を
 忘れて暮らしたいと外国移住に賛成した。
 晴美は学校の社会科で外国を知り、外国行きに
賛成した。残り三人はまだ分別がなく親に
従った。二か月すぎて叔父から返事がきた。
内容はあれだけの資本をもってくれば、叔父が
今日まで働いて得た土地が十分所有できると
あった。
叔父が引受人になり移住の手続きを始めた。
家族四人が神戸の収容所をえてパラナについた
のが九月の半ばだった。
叔父の空家に当分住むことになった、食事は
慣れるまで一緒にした、
晴美と弟は航海中も英語やポルトガル語を
勉強していてブラジル学校に入学した
幸いにも川向かいのコヒー園が売りにだされていた
叔父は条件は運が良いといわれて、哲夫は買う
ことにした
ブラジルに来て事情も分からず総て叔父にまかせた。
コヒーの収穫が終わったばかりで来年までの
管理にお金がいるけど銀行から融資も出来ると説明」
叔父は説明した。ある日晴美が学校から帰って
あのブラジルの学校は日本より遅れて四年生で
日本の掛け算を習っている、と母に語った
栄子はとにかくポルトガル語を勉強して来年は
四年の資格をとれば中学に入れると言われた
栄子は移住して子達がブラジルの大学を卒業
できることを願っていた。
哲夫も日系二世のようにブラジル人に負けない
社会人になってこそ、土地を棄ててやって来た
甲斐があると考えて居た
四か月が過ぎブラジルで初めての正月を迎えた。
街の日本人会館に日系人が集まっての祝賀式だった
持ちよりでつまみものを出して。ビールで乾杯した、
そのご各人が自分の抱負を語りあった、最後に
会長より紹介されて哲夫も新移民として
つぎのように語った。
戦争を体験して困難を乗り越えて平和のように
みえても沖縄では軍用地に接収されて土地を失い
働く場所が無く、いまでも爆撃機が空を飛んで
戦争当時とあまり変わらない。ブラジルに住んで
始めて平和を得た思いです、その上に北パラナー
は土地が良く未だに肥料を使わずに作物がとれて
なお気候もあまり沖縄と変わらない。沖縄に無い
果物が豊富にあることは住みよい場所で
永住する事に決めたと語った日系人から拍手が
わいた。
お正月の夕方叔父方に新年の挨拶に行ったら
叔父はお酒に顔をそめていた。叔父のお蔭で
お正月迎えることに感謝の気持ちをあらわした。
叔父は戦後移民は苦労すること無く、古移民と
同じ生活ができるのは古い移民のお蔭だと苦労の
話を持ち出した。開拓当時や子供に十分な教育も
与えずにやっと得た土地がお前と同じなのだ、
なんだか妬ましいような言い方だった。しかし
戦争に遭わなくて済んだだけでも良いと哲夫は
思った。移民
移民の苦労と。死におびえて生きてきた戦争と
は較べられない体験だと思った
何故か叔父の家庭は何かがくるっているようだ
一人娘は年頃になって。外人と駆け落ちして家を
でていった。
日系人社会では外人との結婚は受け入れなかった。
長男も勉強が好きでなく、農業するにも
叔父が車を買ってやって、一緒にいるけど
よく街に出かけて、仕事に精を出さずに叔父は
嘆いていた
この植民地には三十家族の日本人がおったけど
半分は子供の将来を考えてでていった。
原始林から切り開いてやっと所有できた土地
を子等の将来を考えて大都市に引っ越すのだ
俺もいずれ売り払って都市近郊に行くつもりと
話を続けた。哲夫はどこにも問題はある。
日本移民が出稼ぎの為に、移民は点々と移動して
未だに自分の子孫にうけ
継がせる家を持たないのは、子孫に故郷を持た
ないのと同じで、小さい頃に育った故郷は大人に
なってからの困難を乗り越える勇気をはぐくむ
野だと思った。うき草のような家族に思われた。
晴美と弟の哲司はバスで午前中に街の学校通った
コヒーは見事な花が咲き匂いを風にただわせた。。
近くのブラジル人を雇って収穫をおえた。
叔父さんも喜んでお前は運のある人だ
土地代の半分は取れたようだ。叔父さんはこんなに
沢山実がなったら来年は収穫は無いと言われたのを
思いだして、今まで無肥料で取れるだけ取ってきた
何時かぐっと収穫落ちるのは予想できる。
子供も中学終えたら大学に進むのを考えたら,
都市の近くに移転した方が大学に行けると考える
ようになった。栄子もさんせいした。子供をあてに
した農業は止めた方がよいといった
早速売りに出し,オリンヨスの街の近くに
養鶏場を買い求めた、ここが永住の場所だと

決心した、

2016年1月10日日曜日

2015年度回顧

2015年度顧みてブラジル国家が衰退した感じがする
政治の混乱や政策の失敗などで大きく後退した、政治を
率いるP,T党は国の定めた予算を遥かに超えて低所得の層
に資金を注ぎ選挙の当選を計った。その付けが国の財政を圧迫して、政治責任を問われている。国は高インフレと不況と
失業者で国の収入は減り赤字予算が来年に持ち越されるにいたっている。
13年間におよぶPT党の政治がルーラ始め政治家に国の事業に参加する企業」から資金を集めて、支持する政治家にばらまき今日まで政治を維持してきた、
その結果が今年の政治混乱と経済不況を巻き起こしている
党首のルーラに先見があり、政治理念に基づいた政策を取って居たならば。ブラジルは先進国の仲間に入っていた。
南米諸国のリーダーにもなりえた。ぺトㇿブラスは政党支持の送り込んだ役員とぐるで予算を膨らませて政治家にばらまき赤字をかかえて、産業を引っ張る力はない、国の企業はすべて、PT党の職場になりすまし、競争力を失っている。その付けが国民に押し付けられ企業維持にコスト高で国民が生活苦に陥っている。貧民にお金ばらまく反面に教育や医療制度に欠陥が現れている。労働運動に始めは知識階級も賛同して国民の支持をえていたけど。PT党に政治家や事業家が加わり国の予算を食いつぶして現在では、若い層から国民から反対運動に陥り来年は政治、経済。インフレになやまされて。20年間歩んだ中で最悪の年になるでしょう。
反面農業は雨が順調で農作物も豊作が予層されている。反面中国の生産後退で農産物買い付けが鈍く、市場は停滞気味ですけど、ブラジル経済不安からドル高が予想されて市場は維持できるでしょう。一方では畜産、牛肉、豚肉鶏肉は衛生管理が整い、輸出が許可されて、伸びる可能性

がたかまっている。ブラジルの輸出は農業分野が引っ張ることでしょう。

2016年1月9日土曜日

のうそん誌をかえりみて

永田さんより年賀状をいただきました。
のうそん誌発行から四十六年の年月を得ていて、今も夫婦でボケない限り続けるようです、発行事態が編集や発行と忍耐
と時間が必要なのは理解できます。読者自身もブラジル社会に溶け込んで、家族も二世、三世との構成でよっぽど日本語の
知識に親しみのあるのが読者層だと考えられる。
私と永田さんの出会いは4Hクラブ運動からだと思われる、その運動に参加した二世でも今では70歳にもなり。偶に会うと
其の頃の思い出を話し合います。精神教育の面で影響受けていたと思われる、
のうそん誌の1970年代頃は、永田さんも勉強家で良く日本の経済や世界の経済など詳しい統計から意見をのべていました。
私自身も感銘を受けた一人です。一時日本語教育に、現代派と、コロニヤ伝統的教育と論戦を張った記事がありました。そのご時代
は流れて、事業団派遣の教員が外国語としての日本語を受け入れて、私の孫も日本語学んでいて、何とか日本語に関心がありま
す。次は北朝鮮の拉致問題で、日本政府の約束不履行を外交問題として取り上げた事、読者から反対意見が出されたようです、
私も、その一人でした、いまだに日本政府は解決出来ずにおる
のうそん誌は現在漢字に振り仮名をつけて、二世の方に読みやすいようにできている、よいことです。二世の従姉妹も読者に
なっている。日本語発行の雑誌が消える中に現在も続けて行けるのもコストを安く抑えて発行するゆえでしょう

2016年一月二日。

2015年10月23日金曜日

新開地

僕は一千九百五十一年にブラジルへ移住してきた
あの頃日本はアメリカの占領下にあった。
パスポートもアメリカ発行でサンパウロにたどり着いた
ㇿカバナ駅から夜行でオリンョスに向っていた。
途中で夜が明けて見渡す限り牧場が広がっているのを
見て、僕が日本で頭に描いていたアメリカの西部劇に
出てくる馬にまたがった牛追いの姿が実現できるの
かも知れないと思った。
日本ではあの頃ブラジルはあまり知られず、多分西部劇
の場面のような未開地を想像したのです。
さて。オリンヨスで降りて向かったのが新開地のパラナ
の入り口、チジュコプレト植民地だったのです、全体が
新開地で至る所に倒された木が横たわっていた。
話によれば、高台は霜の心配は少ないので。コーヒー
に適した土地で、すべて原始林でおわれていたのです
低地はパルミットが多く生えて、以外にもぺㇿーバと
セドが多くて製材所が買い上げるお金で
土地代の入金が取れたようです、
あの頃は街の住宅や商店も材木で建てられた
幹線道路は全てのㇿッテを横切って開かれた。
幹線道路の中ほどに日本学校とブラジル学校も
建てていた
農作物といえばまず始めにコーヒー植え付け
四メートル間隔に穴を掘って、種を入れる小さい
木を五本並べて蓋をして芽をだすのを待った、
その間に二列にトーモロコシを植える、蒔のは
冬が過ぎ、春の九月ごろには雨期に入り雨が
降り始める。気候も暑くなり作物の伸びも早い。
原始林に生えていた。蔦や草なども生えだして
おり、取り除くのが仕事だ
二月頃にはトーモロコシも実が半熟し美味しい
パモンヤとクラウが腹一杯食べることが出来る
以後ミリョは半分に折って、その間に
フェイジョンをまいてコーヒ―との間にマモナ
双穴植えて、フェイゾンの収穫が終わると
マモナの収穫が始まり、そのあい間にマモナの
収穫も始まる。ブラジルは年中暖かいので
農業者は年中仕事に追われているので、何処の
家でもブラジル人の労働者を雇っていた、
面積の多いのは四年契約でコーヒ―を育てる
代わりに間作作物を取得して、コーヒーを育てた
どのロッテにも小川があり、川のほとりは牧草を
植えて倒れた木を使って囲い、豚と馬が放されて
いた、馬車は大切で農作物の運搬や町への買い物に
用いていた、その点は
アメリカの西部劇そのものだった。
きつい仕事は豆叩きだ、どのロッテにも中道があり
大きい布を二つ敷いて朝早く、ミリョの上に引き
抜いた豆を載せてあるのを、担ぎ出すことが辛い
仕事だった
袋に詰めた豆を馬車にのせるのも体格のない
人にとってはきつい仕事だった。
力のない女性も出来る限り手伝った。四年もすると
コーヒーが実をつけて雑作からぬけだす
のだった。以上のような経験のある年配の
方は思いだすと身震いすると語るのです
現在。いかなる新開地でも人力で開拓する事は不可能だ
例え人力でミリョやフェジョンを栽培しても
コスト高で市場にはだせない、現在は全て機械農業で
栽培されていて低価格
いくら政府が小面積の土地を農地改革の名目で与えても
人力で栽培しては採算が取れず投げ出してしまうのです
北パラナの入り口からパラガイまで原始林
だった。百年の歳月で人力で開拓されたのです
今日では自動車がありトラクターがあり、モトセラが
ある。

若い世代では開拓物語は過去となった、

2015年10月11日日曜日

随筆  家族と夫婦

私と親子三人がブラジルに移住したのは家族として
呼び寄せられたからです
私のようなケースがブラジルに沢山いる
その理由は殆どがブラジルへ出稼ぎに来ていたのです。
出稼ぎ故に小さい子供は祖父母のもとに預けられて
いたので。殆どが長くて五年間の別れと決めていた。
特に沖縄は土地が少ないにかかわらず家族が子宝にも
恵まれていた。
習慣からも子宝は家族の繁栄とされていた
沖縄は日本と違って家族の仲間に婿いりすることは
なかった。ようするに男子系の家族だったのです
沖縄では殆どの家族が出稼ぎに言っていた。長男だけが
家を守り、二男以下は日本にも出稼ぎにいっていた、
日本で沖縄人の集まるところは大阪で、沖縄村が
出来ているほどだった、
出稼ぎに行った人は故郷に残って居る父母の事
を思って使いたいお金も使わずに、歯をくいしばって
三年間勤めて帰り父母へお金を渡していた、
父母は隣近所をあつめて息子の帰って来たことを
喜び芋の天ぷらで持てなして喜びを分かち合って
いたのです。一つの手柄だったのです
私の父は祖父母が沖縄に残した長男だったのです
父は祖母の許で育てられ。一族は男の子がいなくて
父が跡継ぎのごとく、大切に育てられたようです、
青年になった時海軍に取られて勤めている間に
大阪に寄った時に母と知り合い私が生れ
母の実家で育ったのです。
沖縄で高校途中に祖父の家族としてブラジルへ
呼び寄せられた。
題の家族とは普通両親とその子達をさすのだと
思う、家族の輪をひろげれば
祖父母がおり、または沖縄だと男子系の
孫も含まれる、女子の孫は家族の内に入らない
のです

然しブラジルですと養子や妻の父母や孫でも
家族としている。
ブラジルでは血のつながりに関係なく一緒に
育った人をふくめて家族としている
私達の様に大きくなってから家族に迎えられても
祖父母の家族として加わるのは精神的に苦労が
多すぎるのです、わたしが、見た多くの家庭でも
一緒に育たなかった家族が一家に暮らす事は
お互いに神経が疲れて、上手くいかないようで
した
まるで他人と家族のなかで暮らすようなもので
血のつながりはそれほど和の元にはならない。
戦後移住者は他国への引っ越しですから親子とも
に移住してきた
外国での移民の苦労も親子共に味わっていて、
家族の絆も一層深まっているようです、
私の場合祖父が旅費を出して呼び寄せてくれたので
有りがたく思わねばならないけど。私は家族の
中でしかも長男の子で当然だと思っていた
祖父としては戦争に遭い生き残った自分の孫を
助けたい思いで呼び寄せたのです、
一方で私は言葉の不自由から自由に出来ない
もどかしさがりあり不満であった
別れて暮らして始めて祖父の人柄や人情持ちで
沖縄の移民」たちにお金をかして独立させていた
祖父は無学ゆえに自己的に自分の土地を広げる
ことはしなかったようだ。
一方、夫婦は他人どうしの結びつきで、育った
環境も違い、家庭の風習も違う、それでも愛と
言われる潤滑油で持って、
性生活も加わりなお一層結びついている。
子供が生まれると。夫婦の家庭から子を含めて
家族を構成するのです
二人の所有物の役割を果たし子はかすがいの
言葉の様に夫婦の絆を深めるのです
子が結婚して孫が生まれて家族の輪は大きくなる
嫁の両親をもブラジルでは家族にふくまれる、
若し夫婦が離婚した場合家族の輪はどのような
変化をもたらすのか、離婚したあと一緒に
すごした過去は思い出なども、含めて消えるで
しょうか複雑な気持ちを持つでしょう、
その原因が子供にとっては不幸で不良になる
傾向もある
老人になると夫婦の輪は勿論で家族の絆も大切
で幸せの元となると思うのです。

2015年10月10日   終り

2015年9月5日土曜日

随筆  想像力

今年に入って欠けていた歯をインプランテして
全部揃へた。八十歳にしてである.老人になると
歯が抜けるのは当然ですけど。娘から食べ物は
良く噛んでいると体に良いと言われたのが、原因で
ある、医学の発達でトランスプランテは何処の国でも
行われている、 
最近読んだ太宰治の作品に次のような事が書かれ
ていた。
十九世紀の頃、フランスに有名な眼科の医者がいた  
彼は自分の名を残したいと思いつき、街で出会った
盲目を呼び止めて貴方の目を見えるようにしてあげる
と話しかけた。勿論盲目は喜んで承知した,但わたし
はお金がありませんとだけ告げた。 医者はお金は取らない
とつげた、一週間後に病院にくるように約束した。
当日に盲目が現れてトランスプランテが行われた、
一週間後包帯を取り除くと。彼はよく見えると告げた
医者は自分の手術が成功したのを見せようと、サー街を
歩てごらんなさいと言った、彼は尻込みして私は街の人びが 
怖いのですとしり込みした。医者は貴方の目には
ウサギの目を入れたのだと話すと、彼は驚いて。
私は盲目の方がよいのです。杖を頼りに街を歩け
たのに今はできませんからウサギの目を取ってください
医者はウサギは動物に追われて逃げ歩く習性があるからかもしれないと思った
第二話
日本のやく百家族の部落に大豪農がおった。その家の
長男は人々から坊ちゃんと呼ばれていた、
青年になり嫁をもらうことになった。矢を立てたのが
貧しい農家の娘で顔立の麗しい淑やかな静子だった
彼女は内気で知られていた。青年は彼女に上等な着物を
着せて首にキツネの毛皮を肩にのせたら
さぞかし街の話題なるだろうと考えた、早速静子の
の両親に話すと両親は大喜びを隠すことができな
かった。話はトントンに進み結婚式を挙げた
青年は街に静子同伴して姉に頼んで着物を選ば
せた。勿論キツネの毛皮もそろえた。静子が街を歩く姿は人々を振り返るようになった。幾日たっても実家へ顔をだすことがなかった
亦彼女も街の人と話す機会が多くなり、自分の境遇を
自慢」するようになった。彼女の友達からは嘘つきで
傲慢になったといわれるようになった
昔からキツネは化けると言われている、あのキツネの毛皮
の素質が乗り移ったのかとの噂になった
第三話
人間は想像することができ、つたえることもで
きるのです。人魚の話も想像から造り上げた
のではないかと思われるのです。まず動物の世界で
確実にオスとメスが存在する、けど人魚にオスは診たことが無い。多分男ガ浜で海からでて来て浜辺に髪
ながくした足の長い女性が横たわっているのをみて
人魚を想像したのではないかと思うのです。
男性が同じポーズをしても浜辺の石ころにしか想像できないでしょう。この世界で生命の発生は海からタンパク質
からできたと語っている。単一の性から進化
して動物と植物に別れ、尚進化してオスとメスが発生
して現在までの進化をとげたのでしょう。
この事から考えても人魚にメスだけ存在するのは
考えられないから想像から生まれたのだと私は考える
また。家族とは父と母と子供を持って家族と
社会はみとめる。
現在社会出同性結婚が行われているのは家族と
見なす訳にはいかない、なぜかしら生命の進化から
退化した現象にも思われる、と想像するのです。

2015年8月23日日曜日

 随筆   晩年

晩年とは年齢が老人になり死の近くに生きた幾年と
思われる、私の現在にあてはまるのです
仕事から離れて日々の時間をどのように
過ごすか時間をもてあましているのが現実です、
若い頃と比べて何事にも熱中できないでいる、
その目的は、成し遂げねばとの意義をみいだせないのも
原因と思う、また体の不自由も原因で、目が長時間に
読書にたえず、目が潤んでくる、先週も青空文庫より
太宰治の作品を引き出して読み始めたけど手ごたえのある
作品ですけど、最後まで読んだのはない、字か霞んで
見えにくくなりほりだしてしまう。時間がたつとまた
次の作品を読み始める、ブラジル新聞も見出しと
コルナを読んでなげだす。なんでも知りたい欲望だけは
衰えないようだ。
亦長時間こしかけると腰が痛み、運動してまたあとに
読むのを続けている

それでも生きた証に何か書いて残したいと
思うのですけど、中なか筆が進まない。
記憶を詠みかえらしたら、今日まで生きた証は
たくさん在るはずなのに思い浮かばないでいる。
自分と親かった人々は他界され自分だけが残されて
過去のことを書き残してくれと、頼まれているとも
感ずるのです。
考えると移住者の中で自分ほど日系人社会とブラジル
社会に溶け込んだのも少ないようだ、
日本人会の役員も長年勤めて、いまでも相談役に
おさまっている。亦仕事上組合の役員にもなり
多くのブラジル人と交友をもつ事ができた。
数多くの集会に担ぎ出されて参加したことも
自分の知識を広めたことになっている
それ以外に崇教団体にも加わりパレストラにも
加わった経験がある、人と交わることが自分の
知識を会話の中で披露する事にもなった。
特に後輩の移住者の結婚や独立にも手を貸してやった
方が幾人もおり、その人人も自分より先にいって
しまった。取り巻く日系社会は多様化して。まさに
同化の現象を思わせる。農業に携わる人物は少なく
私自身も最後の締めくくりに土地を貸し出せる準備
をしている。朝目が覚めると寝て体のアロンガメントに
足の運動をする。腰のマッサジ器を使って揉む
そのご呼吸器を使って肺の掃除をしたら鼻の呼吸が
しやすくなる。全てが娘たちの指導で行われている
先週も一周間も身体検査で費やした。
それほどに医学の発達を利用して自分の生命を
伸ばさなくてもよさそうだけど。反面、寝たきり
になり娘の世話で生き延びるのはなおさら御免だ
近頃思う事は若い世代から植民地時代のこと特に
日系人社会が二つに分かれていた時代の事や
経済状態を聞かれることがある、わたしは
戦後移住者で多くの戦前移住者(一世)と関わっていた
けどくわしい状況を聞くのを忘れていた、
それもお互いに古傷に触りたくない思いがあった
のだろう。自分で想像して語る立場にある。
若い世代の二世が自分のルーツに関心をもちはじめたのは
当然で日系社会を引きつがせる役目だと思っている。
この文章も後輩に残す積りで書いている

 2千十五年八月十六日  国吉真一