2013年8月25日日曜日

私小説   旅

なんとなく旅に出たくなった。始めて行く所は過ぎ
ゆく景色を眺ながら、過去を思い出す機会でもある。
自分が今日まで歩んだ人生を振り返って多くの人に
で会った。その中でもぼくの妹の夫の活躍ぶりを目で
確めたいとの想いも、旅の目的を兼ねていたのである。
それ以外にも小説や随筆を書くにも。文献や本を読
むと話題が浮ぶし亦旅も題材を与えてくれると確信
しての旅であった。
先ずサンパウロへ出て.ベロオリゾンテのバスに乗る
サンパウロ州は平原で各種の作物が植えてあり
肥沃地帯で、ミーナスに入ると傾斜地で
牧畜や谷底には南部のパラナ松が自然の形で残
されている。
予定は夕方ミーナスの首都で一泊して。翌朝一番のバ
スでジアマンンチナーの朝七時のバスに乗る。
この街は歴史が古いのでとくに寺院が歴史的に勇名の
ようだ
尚、過去にはダイヤモンドが出て奴隷やガリンペイㇿ
で栄えた街でもある。
ズッセリノ前大統領の出身地としても広く知られる
翌朝席に座ると殆ど満員のようだ。見渡すと南部では
見かけないノルテの人で色は浅黒く、皆痩せ型で
サンパウロとは趣が異なるのである。
僕の隣の座席には運よく日系人のカトリックの尼さ
んがいた。彼女も同じ日本人で安心したようだ
目を逢せてメガネの中を覗くと慈悲深いマリヤをおも
わせた。多分黒い服と頭を包んだ白い布の純真さがそ
う思わせたのだろう。
聖書を広いて目を通していたけど、つい話しかけたく
なった、日本語話しますかと聞いてみた。彼女の読
でいる聖書が日本語なので。彼女は小さい時から
家では両親と日本語で話していた、と語った。
それでは日本生まれですかと聞くと、いいえ二世です
との返事が返ってきた。僕は好奇心がわいた。
では、ブラジル学校には行かなかったのですか。
小学年までとの返事。インテリゼンテなのに中学には
行かなかったのですか。返事は家庭の事情でと。
僕はその事情が知りたかった。なんとか会話を続けた
いと思った。でも会話に夢中になり旅の目的の
見知らぬ土地の風景は頭に焼き付かなかった。
途中の田舎街や石山の多い風景を眺めてブラジルのグ
ラニットがミーナス産地と聞いたけど、この辺ならあ
りそうに感じた。
眺めながらどうして尼さんになったのだろうと思って
いたら、貴方様はどちらへ行かれるのですか。問いかけた。
僕はミーナスのジャキチヨンヤの所まで、彼女はジャキチ
ヨンヤと聞いてブラシルでも貧困が激しい所ですか
と問うた。僕はそうです。男の働き手の八十パーセンとが
サンパウロのサトウキビ収穫に出稼ぎで人口が減るよう
ですと付け加えた。義弟が、コーヒを栽培しているので、
観に行くのですと、彼はパイオニヤ精神が旺盛でと付け加えた。
多分ジアマンチナーで宿をとり、翌朝出発します。
ついでに僕も彼も戦後移民ですと自己紹介した
沖縄の方ですねーと話が続いた。
彼女は父も沖縄県人で浜田と申します、偶然のようで僕の
住んでいる街にも浜田さんの家族がおりましたけど
彼女も親しみこめて、どの街ですかとパラナ州のカンバラ
です。
その時、まーあ、私の父もカンバラですと返事をした。
その時僕の頭の中に記憶が蘇ってきた
僕の娘五女が看護学校卒業課程の実修で、養老院で働
いていた。日系人の尼さんが娘のクラシャを見て貴女はカ
ンバラ出身ですかとポルトガル語で尋ねた。国吉ウシさ
んとはどのような間なのかと聞いていたと娘の話が思
い出された、彼女の父について僕の叔母から
いろいろの噂を耳にしていた、彼女の浜田正典は日本で
医科を卒業してブラジルに移住していた。
その頃は日本でも医者として生活出来たろうにどうして
ブラシルに移住したのか謎に包まれていた。
尚始めの家内は開拓当時マラリヤに倒れ、三人の子を残
して他界した。植民地内では持参金があり倍の面積を所有
していたので、その後日本人の女性を嫁に迎えた、その女
性は夫を同じくマラリアで亡くして二歳の男子を抱えて
いた。嫁に迎える条件として里子に出すように言われて、
やむなく。ある日系家族に養子として迎えられて、その後
音信が耐えていた、
浜田さんは教養があるけど日系同朋からは信頼され
なかった。それでもブラジル人からもドットル浜田と
呼ばれていた、二度目の奥さんと四人の子ができ、その中
の女が尚子で小さい時から体が弱く、家から一歩も出た
ことが無く育ったようである。僕たちの日常会話に
出てくる植民地の古い話に途上した家庭なのである。
僕は彼女の小学校しか出てないけど日本語やポルトガル
語をどうしてマスターしたのか聞いてみた、十四歳の時姉
が結婚してクリチーバに移った時、私もついて行った1.
その後カトリックの教会で働く内に、日本人の神父と
出会い、日本語の聖書で日本語を覚えた」、私は多くの姉
妹や弟がおりますけど、会う事はありません、神に感謝し
て毎日を過ごしておりまと打ち明けた。不思議ですね。僕
の娘が学生時代に貴女と会っているのですと、言ったら
彼女もその事を思い出したとの返事、僕は次の物語を話し
た。ある神父さんが人間は皆見えない糸で繋がっている話
を思い出した。僕と貴女は見えない糸で繋がって
いたのですねと言った。確かにあまりにも偶然ですね
過去の縁が遠い所で、お会いするものね・
夕方ヂアマンチーナに着き、彼女は教会で宿を取るようで
旅の道ずれを惜しんで別れた。僕は古いホテルに寝ること
にした。
寝つかれずに、ある事が想いだされた、僕の長女
が学生の頃、同じ女学生と下宿していた。名前は房江さん
で上手な日本語が話せて。成績も良かった、その父が養子
でサンタマリヤの街に住んでいた。僕はその房江さんを見
た事があり、どこかこの尼さんと似た顔形がしているのを
感じた、或いは浜田さんが里子に出した方が房江の父だと
察した。ホテルには南部の白人は見当たらない
日本人も僕だけでお客さんは珍しそうに僕を見ていた。
翌朝すぐ一番のバスでレーメブラドのバスに乗った
途中幾つもの灌木林を過ぎてリオド―セのカリッピの植
林地に入る。
道路は高台地に連ねてバスは走っているようにある
遥かなる山岳が見渡せる。一千メートルの標高で見渡す
かぎり磐壁ばかりで、その底辺には人の住み家があるよう
で煙が出ていた。高台は牧畜も作物も見当たらない、灌木
の中にブラドの町が見えてきた、こんな僻地にどうしてコ
ーヒーを栽培する気になったのか。
それには曰くがある。
始めに開拓した原始林がパラナの奥地で近くに日本人の
コーヒー農園もあった。開拓初期に、二年メのコーヒーが
霜にやられて、お金に困り、日本人のコーヒー収穫も手伝
った。日本人は新移民の働きぶりに感心していた。その後
日本人家族は売り払って出て行った
サンパウロでも思わしくなく。ミ‐ナスのカルモに移住し
て、見事なコーヒー園を育てた、良質コヒ―の条件を満
たして最高値で取引されていた
莫大な利益を得てブラドにも開拓を広げていた、
現在たどり着いた道のりは険しく、その過程は見えなかっ
た。義弟はサンパウロのポストからの利益で開拓で
きるとの予定で開拓していた。
彼にはパラナ時代に移民も一緒の同志がいて。牧畜を。パ
ラグアイにも百アルケールの牧畜を目指した経験がある。
それもある日系の牧畜業者が日本人は小さい
面積から利益を得るのは素晴らしけど、イタリヤ人の様
に広い面積での牧畜には向かない。牧畜は一千頭の牛を飼育
すれば、悠然と生活できるとの言葉と、お前たちは若いし
亦勇気もある。日本人離れを起こすべきだと言われたのが
パラグアイ開拓に挑んだ
しかし子供が成長するにつれて教育を考えた時に奥地で
は子供を犠牲にするかも知れないと
資産を売り払ってサンパウロへ出たのである。
けれど開拓心は収まらず,ミ‐ナスのブラジルでも最も遅
ている場所がジャキチヨンヤで現実に出会って、とまどい
を感じていた。僕は南部と此処は百年の時代遅れがある
今日までの移民の中でも、これ程開拓に挑んだ人は
ないように思われる。僕が彼に妹を嫁にさせたのも
僕は彼に自分にない勇気や負けじ魂があるように思
れた。それ以外にもユーモアにあふれ。植民地の集まりで
は人気があった。実は僕の家内の父が戦後間もなく母国訪
問なされた時、彼の母といとこ同士で長男の彼も移民さ
せるからよろしくお願いしますと頼んでいたのである。
多分彼は僕の家内を嫁にしたかったのではないかと察し
た、以上が妹を嫁がせた所以でもある。
彼が語ったエピソードが今でも忘れない
先輩の古い話として次の様に語った事がある。
沖縄の村で日照りが続き作物が打撃を受けて村の税金が
払えなくなった。村長は節約せねばならず、倹約者を募
集して助役に指名する事としていた。一人の若者が名乗り
出た、俺は団扇を左右に振り風を起こすはもったいない、
自分の頭を左右に振って熱さをしのぎます。それを聞いた
村長が言うには団扇は破れてもまた買えばよい。店はうるおい。
作る職人も金が回る
お金は。皆に回すのだ。農作物が取れなくも金さえ回れば、
住民は潤うと言った。貧農家は蓄もなく
お金に困ると男は出稼ぎに、女は水商売に出す以外
の道しかなく、余裕ある人は叩いて土地を買い、余計金
持ちになると話した。このような事情はブラジルでも同じ
事が起こっている、開拓では自炊して。自然木を倒し木炭
を生産して資金に充てていた
三人共同で百メートルの谷底から水をくみ上げ二万リッ
トルの貯水漕に流し込み苗を育てていた
部品は全てサンパウロから取り寄せての業なのである。
彼は日本でも中学を卒業後戸主となり村の人びとと共同
作業にも参加して、年配よりの村の伝え話も聞かされて
大人びた所があった。植民地の集まりでは話題も多く。
反面自己主張の意識が強く、他人の意見に耳を傾けない欠
点があった。それでも議論後も後味を残さない心広く
僕は好意をもっていた。
一日滞在して近くの街まで寄ってみた。奴隷制度の頃の跡
が残っていて古い建物が残されていた。
帰りはセッテ、ラゴアスを回って、幾つかの蘇鉄精製所が
あり。義弟の土地で焼いた木炭が運ばれて来る所であった
この当たりは作物が植えてあり地形も穏やかになって
いた、カルモには日系人のコーヒー園が多く
日系人の組合も支店を開いていた。今こそ生活も楽になっ
て豪邸な屋敷も見受けるけど、開拓当時はごく僅かな値
段で土地が取得できて。売り手のブラジル人も日本人は騙
されて高く買ったとの噂もあるようでした、
同県人のコーヒーを観て帰る事にした。彼は戦後移民の二
世でパラナ奥地を開拓初期に原始林伐採中に父を亡くし
ていた倒れる木の下敷きになり、植民地の犠牲者でした。
同朋者は家族の末を案じていましたけど。開拓心を受つ
いでカールモに土地を求めて、開拓したのでした。
僕が尋ねた頃はコーヒー最盛期で収穫労働者が不足して
獲得に争うっていた。
それでは彼らに甘い汁を吸われるだけと、思い切って
収穫機を導入する計画を立てていた、また大量の化学肥r
量が必要で経費を抑える意味において百メートルの養豚
舎を建築して契約方式の養豚を導入する計画を進めて
おり有機物肥料の確保を目指していた。僕の農業と比較
して。天地の差があるように感じた。まさにエンプレ
ンデドールの趣がして頼もしく思われた、別れを告げて
サンゴッターㇿに向かった。この地帯は日本とブラジルの
セラード開発で有名になった地帯で、当たりを見渡しても
アメリカの機械農業を思わせる広い耕地に点,点と倉庫
が立っている。開拓当時は雨の時期やら適作物も解らず
唯土地改良に幾年も費やしたようで先駆者の苦労が
伺える。東のジャキチヨンヤは時代に取り残され、西の
サンゴターㇿは時代の先端を走っている感がある。その差
が地形なのか。それとも人間の差なのか、考えさせる
日本人移住者はブラジルのサンタカタリ‐ナでは初め
て林檎を栽培し北部ではセラードに大豆を栽培してブラ
ジルに貢献したことは先駆者に頭の下がる思いがした。
返りのバスでは過ぎ去った事が思い出された。
僕は地球の反対側で生まれ育った。縁があって祖父が僕
の父を沖縄に残してブラジルに移住した。家督相続故に
移住した、日本では得られない経験をして、違った民族と
交わり。開拓の分野でも貢献してきた移住者なのだ
平和な国に永住出来た事は意義があるのを知った
僕の辿った人生もまた旅で有る事を悟った。終り


2013年8月18日日曜日

随筆

ブラジルの自動車産業
現在の社会は至る所で自動車があふれている
田舎街でも自動車は街の通りは置場に困るようになってきた。中産階級の家には二大の車が置かれて、家を購入する場合も二台のガラ―ジを要求するようになっている、自家用車にせめる費用は食費を上回ると云われているようだ。
国としても車からの諸税収入が農産物収入よりはるかに超えているとも言われている、
自動車産業が国の発展を担っていると言っても過言ではない。ブラジル国など政府の後押しで長期融資を促して生産を拡大して、自動車産業の労働者を維持してきた、その結果大都市に人口が増加して交通マヒをうながしている。あれほど前大統領が石油埋蔵量を誇張したにもかかわらず、
莫大の石油輸入に頼っていて。国の外貨準備高を危険にさらしている。
ブラジル国が石油とアルコールとビオヂ―ゼルで世界の先進国と対等に歩む勢いを見せていたけど、とんでもない。国家の戦略が国内消費に向けられては一時的に生産拡大しても長続きはしないのが建前で、自動車産業も国の政策に安堵して技術革新に力を入れず海外での競争力を失っている。その点技術の面でも遅れていて。いずれ不況に会う事はまちがいない。自動車で発展した社会があらゆる面で行きずまリを表して。車の無い島を求めて移住する人も出ている。最も自然環境に優しい交通機関車はバスに御客を奪われて地方の駅は敗退して、大都市の交通機関だった電車も道路に変わり尚。麻痺状態の今日では見直すべきだと思うのです。先進国の日本やドイツでは水素とバッテリで走る車が試作中であと五年もすると市場に出る確実性まで進んでいて、ブラジルの自動車産業は何時迄も後進国の枠を乗り越えないでいるのです。それでも世界では第四生産国のようです。

二千十三年八月六日

2013年7月7日日曜日

農業と体調

農業は続けたいけど体は年々衰えている中で、いつまで続けられるか疑問が残る。まず目がはっきりと見えず来年の目のメガネを変えて、免許の検査にパスするか問題だ、運転出来なければ農場に通うのも不可能なので、三者に借地に出すほかない。勿論自分の働き場所もない。農業を通じて多くの同僚と会う機会が在って、いろいろの情報や話題が掴めた、この様な訳で仕事場は自分が第一線にいることが最上だった、それでも、借地に出す準備は着々と住んでいる。今年は雨が多く六月一杯で終わる収穫が今だに残って居る。その後はコーヒーの木を抜く作業だ、機械でやればはやく済むけど有機物肥料が失われるので人手に頼っている。残すのは僅かの若いコーヒーだけで使用人の仕事を残す事になり、いずれは解雇する立場にある、今日までの農業を支えて来たのがコーヒ-なので、まだこの街で最後まで残ったのが、僕と隣街の従兄弟の勇だけとなる。祖父の代から続いたコーヒー栽培なので愛着もある。またコーヒー栽培だから多くの子供たちを育て、大学までやる事が出来たとも思う、農業は自然の影響を受けやすい。現在の六月一杯毎日雨で収穫できず、労働者にとっても収入が無く困っていることを思うと胸が痛む、長い年月の農業で何回も計画のとうりに進まない事があって、ふり返ってみると、すべての出来事が懐かしい、総ての果実栽培は人手が必要で機械化はなかなか難しい、それは適当に熟したほど甘味があり上質の商品が得られるからです。それでもある程度の機械化は進んでいる、自分が進歩した農業方を取り入れ、経営するだけの年齢と後継者がいない事が原因である。

2013年6月22日土曜日

労働者と思想

私は貧しい農家の家庭に生まれた、小学生の時から、母の仕事を手伝った。中学生の頃には一人前の仕事を任されていた。勉強の傍ら農家では野良仕を手伝うのは当たり前の様に思った。友達も同じであったからです、青年になってから、想ったり、考えたりするようになって、生きるためには当然食を得るには働くのは当たり前と思っていた。若し働かずに食を得たら誰かが食わせて貰っていることになるからです。大人になっても労働者は大切で尊敬されるべき者だと思っていた、しかし世の中、必ずしもそうではなく、労働者は機械や馬と同じ仕事をこなすのみとあるのです。与謝野昌子の論文―「婦人と思想」の中に労働は神経の下曾の部分が働き。上曾部の神経は。想う事、考える事に使っているとある、医学上そのような神経部分があるとは思わないけど区別上に分けたように取れる、今まで筋肉労働こそが人間の尊い仕事だと思っていた。はて社会組織の中で頭脳を使っている人々こそが発展の元を造っていると考えるようになった
例えば馬は十人以上の働きをする、馬を使えば九人の人間を養うことが出来る。車か機械を使えばなお更何百の人を養う事もできる、そこで機械を発明した人は神経の上曾部を使って発明したでしょう。発明家や企業家などはて何百人もの労働者を雇い。労働者の生活を保障する仕組みになっている。勿論の事。報酬や生活も労働者よりも素敵な生活をしているのです。このようなことを書く私は小さい時から働いていたので労働者の虐げられた生活の味方だったので、社会主義こそ労働者の味方で理想な社会と考えていた。農村からでた小説家の書いた本にはその傾向がある、しかし資本主義国家に最も優れた発明家や発達した企業家がいて、ノーベル受賞者は殆ど資本主義国家から出ているのでも解る。ただ資本家が金銭蓄積の為にだけ神経を働かしたとしたら、その弊害は労働者にも及びよい社会いとは言えない。
「婦人と思想」論説のなかで男子主導の社会のあの頃に女性が追従的に働くことは.下層神経を使うだけで、物ごとを考たり。想ったりしない、つまり女性も上層部神経を使って知識を高めねば何時になっても女性は浮かび上がれないとある。とかく男性は頭脳のエネルギーを発明や研究などに費やして。女性は男性の行き過ぎた行動に、バランスの取れた理想な社会を構築するにはぜひ女性の頭脳をも取り入れなければならないとある現在の男女平等社会が成り立つ前に。知識ある女性が叫んでいたのです

   終り

2013年6月15日土曜日

我が家の犬

我が家には雌犬がおる。名前は二―ナと呼んでいる、僕の隣から譲り受けたのだ。隣の家には二匹の犬がおった、僕の家にも犬はおったけど老齢なので車が出る時、門を開くと注意しないと外へ出る癖があった。出るとなかなか屋敷に入ろうとしない癖もかねていた。多分自由に走りたいのでしょう、また犬を連れた人に出会うと喧嘩でもしたいのか四つ角まで追いかけた、たまには争いになり家の前では威張っていても四つ角までいくと相手は主人がおるのを強みに喧嘩をしかけてきて恐れをなして帰るのです。一度通りがけの人に後ろから噛みついて病院で手当てをしてもらったことがあった、市役所の職員が狂犬病でないか調べにまで来た。幸い予防の接種がしてあった
その後昼は囲いに入れていた。
突然行方がわからずになった多分年ですので主人に迷惑がないように死場を求めて去ったのだろうと家族は話し合った。その後譲り受けたのが二―ナです、幸いに避妊手術を受けているのでオス犬がタムロすることはない
朝起きると僕はコーヒーを飲んでからテレビのニュースを観ると僕の所に来て縋りつき、手をなめたり、顔まで近づいて舌でなめる。人間の挨拶のキッスかも知れない。顔を良く見るとやはりやさしい顔をしている。でも種類は雑種の雑種で何でも食う、特に人間の食事つまりフェイジョンとご飯がいくらでも食べる、その他にラソンも用意しているけどあまり食べようとしない。
時たま夜中に遠い犬と鳴き声を争い寝付かれない事がある。また前の通りを夜中に誰かが通ると吠えるので泥棒の予防になっている。たまに隣の犬と出会って足で抱きあったりする。多分過去の事を思い出しているのだろう、
それでも隣の犬は上品で耳がだらりとぶら下がり毛が柔らかく見るからに品がある。主人のお嬢さんはて綱を取って散歩に連れて行くのをぼくの二―ナは恨めしそうに見ていることがある。多分どうして私の主人はどこにも連れていかないのかと二―ナは思うでしょう、けど一度前に飼っていた犬が人に噛みついたからだといっているそれ以外にも散歩する時間的余裕がないのも一つの理由のようだそれでも二―ナは
私の主人は年齢的には定年になったけどいまだに仕事にでかける。
街の中央に出かける時は車で行き用事が済むとすぐ帰ってくる一体いつになったら仕事を離れて私を散歩に連れて行くのか、二―ナは考えるのです。
人間の争いを犬と猫にたとえることがある、ある時雨が晴れた後犬が吠えだしたので窓から覗くと知らない猫が石垣を歩いているのに吠えていた、この野郎家の主はおれなのだと吠えていたのかも知れない、
ふと次の俳句が頭に浮かんだ
「夜ほえて、娘の帰宅。ホッとする{
(雨晴れて。垣根またがう。野良ネコか)

「わが輩は猫である」の小説の中に。人間が食べる屠蘇の夜食がどんなにうまいのか年に一度しか食卓にださないのをその家の猫は一度試してみたいと隙を見て口に入れたのが餅だった、口にほり込んだのはよいけど歯にくっついて、食べようがなく吐き出すにもだせないで、前足を口に入れて取り出そうと、歩き回る姿を主人の子供らは、やーれ正月になると猫も踊りだすと手をたたいて笑う場面が書かれている。僕の飼っている犬も言葉は出さぬけどいつも主人家族の様子を見てひとりで考えているだろう。然し人間のように考える能力がないだけだ。

2013年5月12日日曜日

随筆   妻と寄り添って


会うは別れの始めの言葉がある。
妻と結婚して近い内に六十年になるけど今まで有難うと言ったことが無い、いつも心では感謝していても改まって有難うと云えないもどかしさ。僕にとってはこの上もない妻だと思っている。お互いに体の故障で良くお医者に通うようになるとやはり別れが近いのかとも感じ、あえて妻への思を書く事にした。
六十年寄り添う中で子育てに忙しくまた僕自身も生活の糧を求めて時間に余裕がなく過ごしてきた
それでも九人の子の父母として子育てが大変なのは子が結婚して子供を育てて子等も知るようになった。ある意味では尊敬と。なんでこんなにたくさん子供を産んだのかと、子等は思っているだろう。子供らは案外良く姉妹の絆を深めてその子達は孫も兄弟姉妹のように付き合って居る。最も僕にとって喜ばしいのは孫達が健康でいることが将来がたのもしい
僕自身は移民して多くの子孫を残してこそ移住した意義がある、幸いにも子供全部が高等な教育を受けてブラジル社会に活躍出来るのは両親にとってこの上もない喜びである
さて僕が妻とで会ったのは移民で来て。まもなくでした。ある結婚会場の帰りでした,従兄弟の馬車で返りに後ろに乗っていたのが妻で月夜の光に照らされて映る彼女の顔は天使のようで学校卒業して間近だった。田舎の娘とは異なり。僕の学生時代の女友達よりも増せて見えた。
日が立つにつれて知るようになった。会う事があっても話す機会はなかった。まず僕がまだポルトガル語が十分話せない事.亦彼女もあまり日本語が話せない事も原因だった。それ以外に性質が消極的で家庭では沖縄口を使っていたのです、学校卒業すると家庭で家事にたずさわり上の学校には行かなかった。それには父の考えも潜んでいた。女は嫁に行けばよその家庭に入り、子育てに勤めたら特別な職業学校などに行かなくても良いとの考えでした、兄の二人は大学まで行ったけど女性については高等な教育を受けなくても良いと、あの頃は皆そう考えて居た。いつでも良い相手がおれば結婚する準備が出来ていることを語っていた、
相手の結婚候補者の男はたくさん現れた僕もその一人でした。
身分のある医者とか大学卒の嫁さんになっても申し分ない女性でした。
それでも僕を選んだのです、僕は寝ても覚めても千代子のことを思った
なぜか僕の家には彼女の卒業の写真があって僕は寝る時写真を抱きしめて寝ていた。僕と彼女は性格が反対で僕は何でも積極的で彼女は消極的で僕が話しかけても返事するだけで意思の交換がなかった。僕が始めてキッスしたのは二人で彼女の家にレコード取りに行った時お互い見つめあって抱きしめていた。彼女も待ちかねていたように思われた。いつまでも心に残る思い出になった
僕と千代子は一世と二世の組み合わせなので議論することは少ない。僕は物事を突き止めて理解することが好きだ。お互いに同じ意見や同じ趣味があれば夫婦はもっと好きになれるとの意見を持っている、言い争う場合でも日本人の良く使う言葉、例えば馬鹿とか「のろま」とを浴びせたとしても二世には余り衝撃を与えないのは意味の深さを知りえない、。今までに共通の点は日本音楽が好きでよく寝るまえに聞く事がある。
二世の妻を娶って僕自身がポルトガル語を理解することが出来たのは進んで会話を持ちたい気持ちの故である。妻もある点では日本語が理解できるようになったのも僕が一世ゆえだと思っている
長年寄り添う他の夫婦をよその人から見ると良く似合の夫婦に見える。長年の共同生活からそうなるのか、二人の意見が良くあう。勿論二人の考え方が合わなかったら長年一緒に住めなかったでしょう。
日本人通しの組み合わせの様に言い争う言葉が見つからないのも二人が長年暮らせる理由でもある、六十年近くの間には二人の体はなんでも知り尽くしている。嬉しい時には愛想よく抱きついてくる、また反対に何の言葉もかけない時は何か気にいらないことがあったのだと気づく。それでも夜抱きしめれば和らぎ理由を語ってくれる。翌日には元の鞘に納まるから六十年も共に暮らせる、長年の夫婦はパネラプレツソンと同じで同じ形で、何時も使う鍋でないと蓋がうまく締らず空気がぬけだすのです。すなわち二人は位型にはまっているのです
新婚当時は母と僕との過去の歴史が長く母と僕との話の話題が多かったので。千代子はよそ者のように、昼間は二人の話は少なかった。でも夜になるとひそひそと二人だけの話になる。交際の為に出かけるのも僕と母で妻の千代子は置去りにされた。勿論、子供の世話の為でもあった。
結婚して十か月に長女が生まれた。世間の人は結婚前から二人は交渉があったのだろうとの噂が流れたけど。事実は結婚まで純潔だった、それは僕が彼女の気持ちを傷つけたくなかったからで、初夜は意義深いものと今でも思っている
僕たち夫婦は教会での式はなかった。僕が教会になじみが無かった。然し結婚して三十五年目に誘われてエンコントㇿでカザウの催しに参加して反省する事が多かった。その場で神の前で式を挙げた。何時迄も忘れない事だった
また八番目に長男が生まれて母がやっとブラジルへ来た甲斐がある家の跡継ぎ出来たとの喜びも忘れない。それで子育てに疲れて肺を患い沢山のペニシリンのお蔭で治ったけど。その後から丈夫な体とは言えない、今は物忘れが多く一人では家事が無理なのでお手伝いをやとっている
夫婦は一体との言葉がある。聖書にもあるようで結婚式の神の言葉として神父が良く使っている。この年になると夫婦二人で一人前の仕事ができるので夫婦一体の言葉を感じるのです。二人で旅行したのは日本からアルゼンチンやアメリカと僕の友を訪ねての旅行で、友達に自慢の妻を紹介するのも楽しみの一つである。国内ではミーナスを訪ね。またバイヤにも旅行した、思い残すことは何もないのが今の心境です
二千十三年五月t二日母の日にて

2013年4月2日火曜日

私小説 追憶


二月の雨が雨期に入り毎日朝から雨が降り、あちこちで雨の被害が報じられている
何もする事が無く、あるけど気が向かないので、愛子は写真帳をめくっていた。定年になり。仕事に熱中したことから解放されて.あれ程望んでいた仕事からの解放も一旦解放されると毎日の暮らしに張り合いがないのが解った
、望んでいた読みたい本へも気が向かないでいる。母の事を思った、結婚して六年目に夫を失い、一人手で四人の子を育て、しかも九十近くまで、何一つ病気したことが無かった。突然二日入院して亡くなった、あれ程に子や孫に尽くして自分の役目は終わったとの様に去った。何か恩返しの看病もいらないと去ったので、その思いはなおさらだ、愛子は長女なる故に知ることが出来た過去の思い出が目がしらに浮かび上がるのである。
朝暗い時に起きて豚にミ―リヨを与え掘り起こしたマンジョカを豚に投げ込み裁縫の仕事にかかるのです。コーヒーを沸かすのも時間を惜しんで愛子が七つの時からの仕事だった、
今では既製品が豊富にあり適した寸法が幾らでも店におかれている、愛子が幼い頃は殆ど生地だけが店にあった。洋服を仕立てるのに裁縫士が必要だった。愛子は母がどのように洋裁を覚えたのか未だわからないでいる、多分独身時代から主婦の友を取って居たと語っていた、それも日本語の先生が彼女の父に進めたようだ。彼女の父母は無学だった。せめて自分の子には勉強させたい思いがあったのだろう。父母は明治のころ沖縄が薩摩の統治下になった時
小学校に入るにはカンプ「髪結」を断髪せねばならなかった、日本政府に抗議の意味で学校行かなかったようである。愛子の母は頭が良く憶えが早いので日本語の先生が雑誌を取るように進めたようだ、後日母は愛子にこの本のお蔭で、人並に世の中が解るようになったと言った事がある、また世界文学集のロマンスも読んでいて。ああ無情とか日本語で読んでいた。そのロマンスのあらすじを聞かせた。愛子が学校に通うようになると小学舘の二年生と四年をとって与えていた、愛子もポルトガル語で書かれた。ミゼラヴェスを読んで母と同様の感動を覚えたことがあった、母自身も主婦の友はその後も欠かしたことが無かった。愛子は植民地の中で自分の家族だけが日本語の本を買っていたことに母は大変だったのではないかと思ったことがあった。だって別の家庭は両親が揃っていても取らなかったから尚更不思議に感じた。母がお金に困った様子は感じなかった。母自身も小さい畑にミリヨとへイジョンを作っていて売るのもあった。コーヒー園はブラジル人に歩合でさせていた。買い物は祖父が街に出る時に買ってくれた。ただ衣類だけは一緒についていき自分で選んで買ってきた.本に載っている日本のはやりを知っていて、子供たちにもセンスの良い服を着せていたので愛子は友達から羨ましがられていた、小学校は植民地のブラジル学校へ通った。お友達は沖縄の言葉は判るけど日本語で会話は出来なかった、日本語学校にも午後はいくけど日本語を話せるのは愛子姉弟だけでした。先生はボリビヤ移民でブラジルに渡った方で愛子の家にもよく来た、多分一人だけの食事を作るのが面倒で共にすることが良くあった。先生は妻子を日本に残しての移住でしたので、あるは異性として感じたのでないかと愛子は思う事がある。植民地の家庭ある男性も洋服仕立てに持ってくることがあった。寸法を取る為に母は男の肩幅や腰回りや、腰下足までの長さを計る為に、男に触れる事があった。愛子は母がどんな気持ちだったろうかと思った、夫婦生活のあと六年過ぎて、後家で過ごした母でも交際上、良くお祝いや葬式に出席した。母は父と母の役目を果たしたと思われる、母は姉妹の中で父母が最も信頼していたようだ。父母の隣に一緒に原始林を購入して伐採から山焼きまで一緒だった。一キロ離れた所にも隣同士で土地を購入してトーラの下敷きの事故が起きて父は帰らぬ人となった。
独身時代から使用人への計算や豚を売る場合の計算は母がしたようで、よく祖父の家に出かけて愛子もついて行った、ご飯はよく一緒に食べていた。クリスマスになると本にある通り子供の寝台に靴下をぶら下げて中になにかプレゼントが入っていた。愛子も子供の頃はサンタクロースが実在すと思って、眠さをこらえて目を閉じて待っていたけどこらえ切れず眠ったことが何回もあった。その事を語ると、母は起きている間はやってこないと本気で話していた、父なくともお友達と比較して決して貧しい想いはしなかった
それも多分、別の土地は祖父の計らいで母の妹が結婚して家を二分して住むようになった。妹夫婦に土地を譲った代金が母に渡ったのではないかと察した。そのご従兄弟もいつも一緒に学校へ行くようになった。従兄弟は男の遊びを知っていて、よく大きい蜂が穴を掘り、隠れているのを糸先に円くメリケン粉を練り玉にして穴にいれると蜂は抱きついてくるけどさされるとひどく痛いことが解った,蜂は蜘蛛や虫など刺して穴の中へ運んでいた。また川には穴の所にミミズをエサに釣り糸を下ろすとドジョウが釣れた、このように幼年時代を過ごした、思春期になり父と母はどうして結婚したのだろうか聞いたことがある。母は笑いながら愛子も年頃になったねと返事した。結婚写真はあるけど花嫁衣裳ではない。でも父は兄さん家族と構成で移住して学校も小学校しか出ていなかった。あの頃の移民は男が多く、しかも独身が多いので、日本から呼び寄せるか、二世と結婚するかで。女性が不足していた。でも、主婦の友にあるロマンスも好きで、いつも自分の前に素晴らしい男性か現れることを夢に描いた事もあったけどこのような田舎と、本のロマンスとは現実から離れていると感じたと、話したことがあった。入金さえあれば土地が買えた、後は伐採の資金と住む家を建てるお金が必要だった。亦大きいペㇿ―バーは製材所が良い値段で買ってくれた。多分婚約が調うと祖父が立て替えたと母は語った。それで余計なお金は使わず、家庭用品を整えた、独身移民の結婚は皆同じだったとも言われた、ただ母の姉は自分が先頭にカマラダと一緒に働いて祖父を助けたのと。また、土地所有者と結婚していて、しかも二世でブラジル事情に詳しいので信頼されていて祖父母が花嫁衣裳を整えたと聞かされた。父が兄家族と暮らしているころは愛情が乏しく、生まれた娘に愛子と名つけたとも話してくれた。父の独身時代は独身移民が多く連れ立って良く街の遊郭にも遊びにいったようだとも、夫婦の会話の中で知るようになったと語った、愛子から見ても母は決して美人ではないけど、他の叔母さん方に比べて品があり。亦他人の噂に惑わされる女性ではなかった。自分の信念を持っていたようだ、このような教養も皆雑誌が教えたのだと思った。亦姉婿と一緒に遠いサントスまで親戚の結婚式に旅行した事があって、姉の嫉妬を受ける事もあったけど母は賤しいことは無いと平然としていた
母と祖父の間に意見の違いができた。実は母の父母は長男を日本に置いて移民していた。その兄は海軍で、ある女性との間に子供が出来た.事故で死亡した時には六歳の長男がいた。お兄さんの葬式にその長男も一緒に取った写真が送られていた、戦後文通が始まり、長男あてに慰問品を送った事もあった、その文通は母が書いたようだ。長男は高校に通っているとの手紙だった。祖父母は男の子に運が無かった。兄さんのほか母の下に弟がいて、サンパウロで中学を勉教中柔道稽古で体を痛めて肺炎で死亡したのです、なお一層日本の孫を思う気持ちがあったようだ。愛子の母は父母の気持ちを知って。ブラジル呼び寄せの手紙を書いた・
然し長男の母は今更長男でも遠いブラジルには行きたくないと返事が来た。母の父は自分の孫で国吉家に戸籍も入っているのにと怒った
母は移民の苦労は皆知っているはずで幾ら戦争から生き残っても移民して苦労するのは誰でもいやでしょうと父を慰めた、いきさつを愛子に話したことがあった、その後父の計らいで百万坪「十五アルケール」の土地があり孫にも分けてやることを手紙で知らせた、またブラジルへ来なければ戸籍も除籍するとも書いた。返事は高校中退でブラジルへ行くことになったと知らせた。十二月にコンゴ二ヤの空港に母も迎えについて行った。孫の名は真一で国吉家の真が入っていた、学生なのでまだ何もかも知りたい気持ちが一杯で二世と違った感がしたと帰ってから話していたのを子供ながら愛子は憶えている。問題は学生なので祖父は男」は皆学校にやり命を奪われたので孫は農業を継がせることにしていた。当然新移民からブラジルの国に慣れる事だと言い聞かせた。その点は孫も承知した、戦争に比べればなんでもたやすいことだと言った。真一兄さんには妹がいた愛子より五つ年上で兄さんと一緒に畑仕事にでた、その事が愛子の母は悲しく思った、日本では同級生はまだ学生だった。愛子の母はたとえ国吉家の血をひいてなくとも。孫同様に扱うべきと思っていたから、なおさら十五歳で畑仕事はさせたくなかった、考えると自分もしてきたのではあるけどとも思った、しかし時代は良くなり古い移民の苦労はあまり語らなくなっていた。孫真一親子は二年辛抱して分家することになった。別れて暮らせば愛情もわくかも知らないと、愛子の母は父母に話した。孫の真一を実孫として疑問視する事だけはやめてくださいと父母にお願いしたとも愛子に話した、実孫でなかったら兄の葬式に一緒に写真とるわけがないと愛子の母は思ったから、ただ孫の真一はあまり出来過ぎた男で国吉家よりも母の方に似ていたのだ。愛子は大人の世間話も母からいつも聞いていたので人間の難しさを知っていた、愛子が大人になってから真一兄さんから次のように話してくれた。祖父は孫の私が国吉家を盛り上げて欲しいと想っていたようだ,真吉叔父が人並の頭がないので孫で土地を運営してほしかったのだと思っていた、期待したのとは反対に深い溝ができた、家族は小さい時から一緒に育たないと、小さい事でも気にしてしまう、祖父は学校出ていないので世の中の情報が欲しかった。僕に新聞も取ってくれたけど僕は読むだけで祖父は巻煙草を削りながらも僕が内容を一度も話したことがなかった。それは二つの家族が一緒になっただけで深い絆は出来ていなかったのだ.あなたのお母さんとは何でも話すことが出来たのにと祖父が癌で亡くなってから気が付いた。祖父は良い人だった。僕は感謝していると語ったことがあった。愛子は何でも知っている真一兄さんに愛情を感じていた。然し肉親であることは承知していた、
その後真一兄さんのもとに一人の男性がやって来た。名前は安雄で真一兄さんの従兄弟に当たり彼も学校中退で十七歳でした
多分、真一兄さんの結婚写真、花嫁姿が日本に送られていた。写真だけ見ると大変豊かな生活の国の感じがする、だれの結婚写真でも華やかさが出てその中にある普段の生活の苦労は浮かばないのが人間である、どのような写真でも思い出は懐かしく特に新移民生活の苦労は感じないのが常であった
其の安雄も多分ブラジルで学校も出してくれるだろうと思っていたようだ、僕も思っていたからです、世間知らずだったのです、安雄はどこか真一兄さんに似たように知性に富んで、唄も上手でいつも三橋道也の歌を歌って遠くまで聞こえた。
多分故郷を思って歌っていたのでしょう、
その様なハンサムな男子が植民地に出現し
た。フェスターソンジョンがバルボ―ザ耕地で行われることになった、愛子もあの男性が、あるいは来ているかも知れないと思って行って見た。やはり来ていた真一兄さんが紹介した。二人はその後もずーと話し続けていた、
愛子ははじめて会った安雄さんのことが頭に焼き付いて離れなかった、愛子は自分の気持ちを母に打ち明けた。母は次のように話した。母の時代は二世の学校出たのがいなかった。今は二世も学校出たのがたくさんおるので何も好んで新移民と結婚しなくともよい。新移民は苦労するだけで生活の基盤がないと言われた。然し愛子は好きになることは将来の結婚を前提として居なくとも起こりうることだと思った、その後も交際は続けていた。真一兄さんは二人の愛を信じて、田舎に留まっては将来性がないと街で職業を身に着けるように安雄に意見した
早速クリチーバに写真業の見習いとして働くことになった。離れていても愛子は文通を続けて二人の愛は実りつつあった、愛子は次のように手紙を書いた。貴方がクリチーバにいってからはなお一層愛する気持は募るばかりで、貴方の事が頭から離れないのです。愛する事は胸を締め付ける思いがするけど、毎日はりあいがある貴方を思って苦しいけど幸せです、夜は貴方の写真にキッスして。貴方の夢を見たいです。   愛する人へ愛子より
また安雄からの手紙
日本の母から帰ってくるようにとの手紙が来た。然し僕は愛を信じて写真業独立する計画を進めているので帰るわけにはいかない。亦真一兄さんからも勇気づける手紙を受け取った。手紙には暇な時は文教に寄るって本を読みなさい、同級生は高校卒業しているのに負けずに知識を身につけなさいとのお言葉でしたの行くことにしている、愛する愛子へ
愛子はノルマール卒業ご先生の職についた。弟が大学に入学したので愛子は月給から母を助けた。
二世の男性も愛子を求めて良く遊びに来るのを母は心よく迎えた。それも母の家庭に父がいない故に遊びに来やすい点もあったのだろうと愛子は思った事がある、真一兄さんからみて愛子は知能がすぐれて理性に培われた女性で日本人の持つ知性とブラジル女性の率直さを持ち合わせていて家庭の主婦に最良で母に似ていると語ったことがある。安雄は彼女の性質が気に入ったの
である。愛子も安雄を思う気持ちに変わりはなかった。
休みになると安雄も休暇を取って愛子とデートを重ねていた。良くシネマに行った、安雄は学校の先生が真一兄さんは沖縄におれば良い先生になれたのに、外国にいったのは村としても惜しいと話していた事を安雄に語ったと愛子に話した。愛子は安雄さんは。どんなでしたか、安雄は君も真一の所に行くのかと聞いて、彼なら安心して良い、と先生が語ったと話した。
沖縄人二世は日系人の中に溶け込んでいるけど、なぜか二世も沖縄人二世と結婚しているのが殆どだった。別に差別する訳でもないけど。亦、親同士の交際が取り持つ縁談なのかとも受け取れた。現在は殆どが恋愛結婚なので交際の範囲は広い、それでも県人二世の縁組の方が多いようだ、それも三世の世代はブラシル人との混血も多くなっている、愛子が新移民と交際するのはまれだった。真一兄さんも二世と結婚してよい家庭を築いているので自分も出来ると愛子は信じた。翌年に愛子の街で写真屋を開業して生活の基礎が出来て、翌年には結婚した。住み慣れた街を離れる事を決断してそれも母が弟と一緒にクリチーバの都市移ったので母の老後を見守る意味で移る事にした。都会で開業して住家も購入して安定した生活ができた、日本にも留学して安雄も一緒に一年日本で生活したことがあった。定年後自宅で日本語(クモン)を開いていたけど足の不自由を最期に、閉じた。母も一緒に旅行もするつもりが母は突然去った。真一兄さん夫婦と私夫婦四人でアルゼンチンやロスなどにも旅行して老年を楽しんでいる

    おわり