2011年11月2日水曜日

日本の政治の現実

私は外国に住んでいて現在の日本の政治が気になる、日本は豊かになった故にその付けが回ってきたかんじがする、今日まで国は多くの負債を抱えて豊かになった感じがするのです。直面している現在の問題、国家負債もその一つです。なお東北復興の問題。T PPの問題。普天間基地移転の問題。以上の問題は政府がねじり国会のなかで思うようには国会通過しないのです。まず野党の人民党は出来たら政権を奪回しようと待ち望んでいるので早めに国会を解散に追い込もうとしているし、国の復興を妨げると国民から嫌われるので協力せざるをえない。まず来年度の補正予算を通過させねばならない。
日米自由貿易の問題も工業生産者は賛成デ農業者と漁業と医療関係者は反対と、国民を対立させる立場に至っているようです、最も農業者は国民の食糧問題、現在30パーセントが地方の高齢者によって生産されているので、自由化すると農村に住む人がいなくなる恐れもある、将来人口が大都市に集中することは確実ですけど、速度が速まると思われる。もし世界の中東や日本近海で戦争にでもなれば日本が食料を輸入できなくなり、国内に大量の食糧を備蓄して世界市場の影響を受けない施設が必要です、それは石油も同様だと思う、また普天間基地の問題も日本国家を考えた時,中国やロシヤが日本近海を脅かしている現状では空軍の軍備を供えねばならない、国民が自分の国は自分で守るとの覚悟があれば憲法を変えても、また安保条約を放棄してでも、今からでもやるべきだと思うのです。日本には戦闘機など造る技術は十分あり、いや戦闘機は造らなくてもまた航空産業によって雇用も生まれるでしょう、また輸出の出来るでしょう、しかしアジヤ諸国との摩擦も生じるでしょう、いろいろ問題を考えた時に安保条約を維持して近隣諸国との友好関係を保った方が日本の得策のような気がするのです、日本はあまりにも進み過ぎた感があり、外貨を減らしても70年代に後戻りしてゆっくりと復興すべきとおもうのです、

日本の政治の現実

私は外国に住んでいて現在の日本の政治が気になる、日本は豊かになった故にその付けが回ってきたかんじがする、今日まで国は多くの負債を抱えて豊かになった感じがするのです。直面している現在の問題、国家負債もその一つです。なお東北復興の問題。T PPの問題。普天間基地移転の問題。以上の問題は政府がねじり国会のなかで思うようには国会通過しないのです。まず野党の人民党は出来たら政権を奪回しようと待ち望んでいるので早めに国会を解散に追い込もうとしているし、国の復興を妨げると国民から嫌われるので協力せざるをえない。まず来年度の補正予算を通過させねばならない。
日米自由貿易の問題も工業生産者は賛成デ農業者と漁業と医療関係者は反対と、国民を対立させる立場に至っているようです、最も農業者は国民の食糧問題、現在30パーセントが地方の高齢者によって生産されているので、自由化すると農村に住む人がいなくなる恐れもある、将来人口が大都市に集中することは確実ですけど、速度が速まると思われる。もし世界の中東や日本近海で戦争にでもなれば日本が食料を輸入できなくなり、国内に大量の食糧を備蓄して世界市場の影響を受けない施設が必要です、それは石油も同様だと思う、また普天間基地の問題も日本国家を考えた時,中国やロシヤが日本近海を脅かしている現状では空軍の軍備を供えねばならない、国民が自分の国は自分で守るとの覚悟があれば憲法を変えても、また安保条約を放棄してでも、今からでもやるべきだと思うのです。日本には戦闘機など造る技術は十分あり、いや戦闘機は造らなくてもまた航空産業によって雇用も生まれるでしょう、また輸出の出来るでしょう、しかしアジヤ諸国との摩擦も生じるでしょう、いろいろ問題を考えた時に安保条約を維持して近隣諸国との友好関係を保った方が日本の得策のような気がするのです、日本はあまりにも進み過ぎた感があり、外貨を減らしても70年代に後戻りしてゆっくりと復興すべきとおもうのです、

2011年10月15日土曜日

世界経済の現状

ヨーロッパの経済状況悪化に加えてアメリカの不況と日本の東北大震災の影響で輸出が伸び悩み日本の円高による輸出の伸び悩みで先進国が不況に陥り、そのしわ寄せが後進国にも押し寄せている。世界で最も経済成長の激しかた中国でさえ、輸出が鈍っているので世界全体に影響を与えているようです。ブラジルも影響を受けて、農産物は軒並み値段が下がりかけているようです、10月から始まる今年の植え付けにも影響を及ぼしているようです、ヨーロッパでは。銀行がギリシャの国際を買い込み国が破産寸前にあり、ヨーロッパ連合で資金調達を行うので、銀行に余裕がなく株式市場は停滞して、農産物先物取引に回す余裕がないので先物取引は停滞しているようです。その影響がブラジル農産物の低下に現れています。それでも世界の食糧事情はストックが少なく、消費は拡大しているので、特に中国は人口が多く、国民の所得も輸出によって倍上して食糧の消費も拡大していて、アメリカや、ブラジルから買い付けて賄っているので,以前の値段まで下がる事はないようです。アメリカの今年度の穀物生産量は去年よりも少ない予想ですので、世界の経済が安定化すれば亦持ちなおると、事情に詳しい専門家は発言しているのです。農産物の市場は世界の経済にもより、また気候にも左右されていて。尚コストの面では石油価格も影響するので、予想が当たる率は60対40と思っています

2011年10月2日日曜日

年を重ねて思うこと

外国に移り住んで六十年にもなり、若い頃に抱いた夢もなくなり、毎日元気で暮らしている事に、神に感謝している
回りの知人も殆ど他界して、次は僕の番かもしれないと思うこともある、過去を振り返ると日系社会の変化を感じる。
名の知れた日系人のファゼンデイㇿも姿をけして、若い二世には名前さえ思いだせないようだ。移民の初期にコㇿ二ヤの中で自分だけが土地がなく、あれ程にも欲しかった土地が。意味を持たない、其のことは生存した証にはなるけどいずれ自分の亡きあと人手に渡る運命にある。それでも農業をやる以上土地が資本であり、自分の可能性をふるう場でもある、生まれた故郷に比べて、土地は豊富にあり大きい面積を持ちたいとの野心も若い頃にはあった、子供の教育を第一に考えたら野心は自然と消えて行った。多くの仲間たちが街の仕事に変える中、自分だけが取り残されたようにも感じる。ただ農業に熱中すれば、ボケるのも遅く、現代から取り残されずにいることはできる。戦後移民の仲間達は殆どが職場から離れている、しかし良く観察すると現代から取り残された感がある、まずポルトガル語が読めない。また現代の必要なコンピウターも扱えない、其のことはまさに次の世代の子弟との繋がりが無いのは悲しい、この事は次の世代に資産を残す事よりも大切のような気もするメールを通じて語り合うのも楽しい、最近のうそん誌の投稿者、マトグㇿソ州とメールの通信が出来た、なぜか私同様に妻は二世で、しかも遠いマトグㇿソに移住したのに関心があり、近日に会う約束が出来て楽しみにしている、年をとると足の運びもにぶくなる、頭は過去の記憶を思い出すのに熱中する、未来が見えないのは当然で今日元気でいることに感謝するのみである。最近はタブレットも購入して明治時代の有名な作家の著書を読んで時間を過ごしている

2011年9月25日日曜日

回顧

私は移住して六十年になりましたけど移住始めの十年と今日の十年ははっきりと記憶にありますけど中間の四十年間は記憶が蘇らない。そのことは自分の今日までの人生も同じことがいえる。故郷の少年の頃は今でも記憶にある、最近訪問した時の村のたたずまいは憶えていないけど昔の姿はいまでも頭に焼き付いている、移住した初期の記憶は、はきりしている、それは自分や家族が将来の不安をかか得ていたからだと思う、日本では学生でしたので自分が責任を持っていなかったので、ただ学生生活を楽しく送っていたからです。移住して祖父母の家族と一緒に暮らすようになって、初めて人間の付き合いの難しさを感じたのである。

真面目に一家を持たねば心が収まらなかった。まず何故、孫の私達親子を呼び寄せる気持ちになったのだろうかと考えてみた。戦後間もなくブラジルから沖縄へ慰問品がとどいた、なんにも無い時ですから大変うれしかった。同級生からも羨ましがられた。そのことが祖父母に親近を感じたのです。
祖父母にしてみれば故郷に残した長男「私の父」が海軍でしたけど若くして死に、そして孫の私が生れていたので、一家の跡継ぎでもある孫を戦争で困っているので、助けたい気持ちもあったようです。祖父母には不運にもブラジルで二男も大都会で勉学中に死亡されて、家を継ぐ男がいなかったのも呼び寄せた原因でした、さて、一緒に生活してどうしても馴染めない、いろいろと戦後の沖縄を話しても祖父母の頭の中には故郷を後にした時の姿しか知らない。その頃のブラジルのコㇿ二アは戦前の沖縄そのままなのです。植民地には四十家族ほどの沖縄県人家族がありましたけど。殆どが小学卒ですから自分の村から出たことがなくブラジルへ移住したのです。特に祖父母は無学でしたのでなおさらです。それでも祖父母は人一倍働き自分の土地を持つことが出来た、初期移民の苦労をなされて植民地でも別人よりも多くの土地を持って居た。私達親子移住を決めるまでには、幾通も手紙のやり取りがあった。母は自分の村人と別れて外国へ40代にして決心するのは容易ではなかった。そもそもお嫁に行くような立場だったのです、でも私の将来が見えない中で祖父母に託したいので決心したのです。来て初めて嫁勤めの難しさを感じて、夜寝床で涙を流すのもしばしばあった。私は意を決して家を出ることにした。祖父は私たちに家財を分けあたえた。独立して自由にはなったけど不安もあった。私達親子はコㇿノ用の堀立て小屋に移り住んだ。先輩の移住者が歩んだ道を歩き始めたのです。私は一家の柱として隣の叔父の日雇いに何か月も働いた。。まず言葉を覚えるには同じ使用人のブラジル人の話相手になる事でした。植民地の日本人は必要な簡単な会話はできても文法に適した会話ではなかった、読み捨てのブラジル雑誌を読みいちいち単語をポ-和辞典を導いて単語を帳面に移した。植民地の年頃の青年は小学程度の知識しか無く、話相手は自分の家の使用人なので私を引き付ける人はいなかった、ただ日語学校の先生はたくさんの本を持って居たので、夜になると毎日先生の部屋へ行って本を読むのが日課でした、植民地の家長たちは日曜になると良くどこかのお産お祝いとか、または亡くなられた人の御そうこうなどに良く集まっていた、私も家長として参加することがよくあった、。
話は昔の伝え話とか、または別の植民地の話などだった。植民地には良く物売りが来た。ミシンの修理や蓄音機の修理なども行った、中には沖縄三未線なども売り。どこの家にも三未線はあった。夜になると家家から三未線の音が聞こえて故郷を偲んでいた。ブラジルでの伝え話は物売りが夜になると行き付けの家に泊まるのが習わしで、自分で得たり聞いたりの話を居候の家族に聞かせるのを楽しみのようだった。人から聞いた話でも、あたかも自分が体験したように聞かせていた、その家族はその話をまた別の集まりで聞かせるのでした。ただし正月や7月になると首都へ勉強にいった学生たちが帰ってくるのでその人たちと会話を交わすのが自分の向上心をもりあげた。移住して4年目に異変が起きた。祖父口癌にかかっていたのです.最善をつくしたけど様態は悪化して死間際に私に住んでいる土地を与えると言ったけど私は買うことにした、正当な値段で4年払いにして祖母に払った、そのことが自分に自負心を持たせた。すなわち、私も二世と違って移民の同じ道のゼロからの出発だと思った。亡きあとは祖父のことを思っていた、彼は無学にも拘らず自分の土地に日本語学校やブラジル学校を率先して造らせた。そのことは自分が学べなかったことを子孫に学問をさせたい信念があったのです。なお後輩の移民が土地を買うときには資金を調達したりした。私が移住した頃には沖縄では部落に電気もついていたのに、当植民地ではランプに頼っていた。のでまだ遅れていると直感した、しかし食事は豊かで肉類が多く食べていた。そして誰でも食事を共にすることが出来た。そのようなことは日本ではできないことでした。どこの家にも馬と車があり街への用事は馬車で達した。私の植民地はよき指導者がおって勝ち組はいなかった。そのことが家庭がブラジル化して日常会話はポルトガル語かウチナグチでした。ある日勝ち組の多い植民地へ行くと日本学校では天長節や教育勅語も朗読されて戦前の教育がなされているのには驚きました、それでも生徒の会話は日本語でした、時がたつにつれて日本の敗戦が伝わるにつれて精神の動揺を避けるためにも成長の家が普及していった。その後は二世もブラジル語の中学に通うようになり自然とプラジルへの同化が進んでいった

2011年8月13日土曜日


頑張れ
東北大震災以後目につく言葉が、「がんばれです」この言葉はスポーツの応援などにも
良く使われていますけど。東北大震災の沿岸のガレキの埋もれた市街地を見て思い出すのが。戦後の焼け跡を体験した人々には慣れていますので.頑張れ。の言葉も受け取れる気がしますけど、若い主婦や40代の戸主にとっては明日の見えない現実 に家もなく、仕事もなく、子供の健康に不安を感じている人々に、いくら「がんばれ」と叫んでも聞き入れそうにない感じがするのです.丁度車のバッテリが消耗してきれた時にいくら下に流してもエンジンはかからないけど、ちょっと別のバッテリで補給するとエンジンがかかりバッテリに充電できるように、ドン底にある人にとって、同僚や支援団体が少しでも後押しをするのが動き
出すきっかけになるのではないかと思うのです。戦後を体験した人は職にも不自由して全ての人が同じですから、まず自分と家族を守る以外は余裕がなかった、現在はまだ余裕のある人がたくさんおる。二本の国は何時もどこかで災害が起こってきた。.それでも立ち上がってきた、日本国民は実に「頑張る」国民なのです、8月13日

2011年8月7日日曜日

判らない事Ⅱ

老人は若い者に比べていろいろな事を経験している。そのことが脳の中に記憶されている。ですからその記憶をとりだして、色々の出来事に応用されて失敗を少なくしていると思う。何時かの報道にタクシ‐のお客さんは老人の運転手を好むと言われたのも事故が少なく安心できると語る。若い人に言わせると運動神経が鈍くなり、すばやい判断ができかねるという。それでも老人になるまでにはいろいろな小さい事故に相遇している、その経験が記憶にあり注意して運転しているのだと思う。私もまだ運転していますけど、運転すると特に街角では左や右を見て走るのでとても神経を使う。それ自体が頭の脳に刺激になるのでないかと思うけど判らない。脳の中には過去の経験が詰め込まれている。たまに記憶を思い起こしていますけど、長年思いだす事も無ければ忘れてしまうのだと思うけど判らない。老人は多くの経験を生かして色々な発想が生まれるのではと思うけど。そうでもないらしい。何事にも尊重して踏み切れない。その点若い者はたとえ失敗しても起き上がるだけの体力と想像力を持っているから実行するから新しいものが生まれる。
若い人は脳の中にまだ余裕があり、あらゆる事を想像できるのではないかと思う。世界の発明や発見は殆んど40代から50代の人に多いのも脳の中に余裕があるからではないでしょうか。老人は自分の持っている経験を元にして、物事を判断したり、物事の見方をする。若い人は老人と違った環境で育ち老人と変わった物の見方をするので。なるほどその様な見方もあったのかと驚く事がよくある。そして反省することがある。そのような事は親と子の間にもあり。一世と二世の間にもあると思う。亦老人も若いころ進歩に満ちた、アイデアを持っていたのである、私は父を持った経験がないので息子ができた時は西洋人のように、親子で釣りをしたり、バスケットボールして友達のようにありたいと思った、でも仕事に追われて実行した事なく過ぎた、今思うと頭の中に父は父らしく威厳が無ければならないと、日本人的な考えが潜んでいたのかもしれない、息子が結婚して子供ができると良く子育ての手伝いをするので親に似ない子だと妻は褒める、あるいは自分の意思が通じたのではと思うけど判らない。ある時。友達ど日本の学校生徒が理科数学を嫌う傾向がるといわれ。その反対にインドの学校では物凄く数学を取り入れて掛け算や割り算を暗算で教えているので、将来日本の科学の進歩がインドに負けるのではないかと私は意見した。あまりにも遊び道具が多すぎて一日中夢中になる子達を見ると、果たして勉強する時間があるのかと思っていたからである。すると友達は、遊びの中から色々な発想が生まれて、その発想が亦別の発想を生み出すのだと語られたほんとうだろうか判らない。かならづしも学校優秀なる人が良い発想や良いアイデアが生まれるとは限らない。いくら考えても判らないことは沢山ある。読者も判らない事を随筆に書いてください。お待ちしています真一。20011年7月20日晴天にてshinichi kuniyoshiblogspot comにて